この物語はフィクションです
梅雨の時期独特のじっとりとした空気が肌にまとわりつく中、彼は歩いていた。
とある仕事をやっとの事で終え、後は帰るのみ。
既に心はその場にあらず、安堵の気持ちと達成感から自然と足も速くなる。
だが彼が足早になるには決して心地よい気持ちからだけでなく、それとは別な一刻も早くこの肌にまとわりつくような不快なじめじめした空気から逃れたいという思いも含まれているからだ。
彼はクルマが停めてある地下駐車場があるビルへ向かう。
ビルに入ると完備された空調設備のお陰で、ひんやりとした空気が心地よい。
”ふう”
思わず小さな溜息をつくとエレベーターのボタンを押し、乗り込む。
一瞬にして開放された空間から、密閉された空間へと環境が早代わりする。
そして密閉された空間には女性の先客が一人いた。
人間に限らず生物は自身の身を守る為に、絶対的な距離をとりたがるもので、無意識の内に彼も女性も狭い空間ではあるものの、互いの距離をたもつべく、エレベーターの端と端に陣取る。
1・・・B1・・・エレベーターの階層を指す数字がゆっくりと変わって行く。
こういう風に誰かと居合わせたエレベーターというのは、何処か気まずいもので、早く目的の階層になってくれと願うのは人の本能だ。
彼の目的とする階層まであと一階となった時、それは起こった。
”ガクン”
振動を残しエレベーターが停止した、故障だ。
”お?”
彼はちょっとの間だけ室内を見回し、非常用の電話にて救援を求める。
”原因を確認する”と電話の向こうの管理会社の声が途切れると、たちまち密室に静寂が訪れる。
この程度の事だ・・・どうにかなるだろう・・・・・・彼は呑気に構えていた。
が、運命の神モーサは事を静かに治めようとしている彼にちょっとした悪戯を試みたのだった。
助けを求めてからしばし後、彼は下腹部に刺激を感じた。
腸が絞られるようなこの感覚・・・そう、彼は突如腹痛を覚え始めた。
しかもどうやら急を要するらしい、たちまち彼の額に脂汗が浮かび始める。
「凄い汗ですけど、気分が悪いんですか?」
先客であった女性が彼に問いかける。
”え?ええ、エレベーターの中って暑いじゃないですか”
女性の方を振り向かずに彼は答える。
しかしそれが良くなかった。
自身の体に危機が陥った時の生物には余裕と言うものが全く無い。
プライベートならいざ知らず、外に出て人の目がある時は極力紳士的に振舞うのが信条である彼にとっては、見られている自身のイメージを悪くするのはもっての外であるから、こういった些細な心配りも当然なのだが、たかだか時間にして数秒の台詞を口にしただけで大幅に体力を消耗してしまったらしい。
今や彼の頭の中には早急にこの腹痛の原因を出し切る事という思いで満たされているのだが、それすらままならないエレベーターに監禁された状態が過度なストレスを与えているのだった。
耐え切れず、床にしゃがみ込む。
「ちょっ!大丈夫ですか!?」
大丈夫なわけないだろう、お前さえいなければ・・・いなければ!
口には出さなかったが彼は”いなければ”と思った後我に帰る。
”いなければ”どうしたと言うのだ?
自転車レースの最高峰として名高いツール・ド・フランスでは、レース中に催した時には、道路の端を走りながら、チームメイト全員で出すものを出すそうだ。
また、フルマラソンの選手は練習の中で走りながら用を足す練習もすると聞く。
つまり極限状況下においては大地その物が受け皿である事に変わりは無い。
で、あれば今の彼が置かれたこの状況下ではこのエレベーターが受け皿となる。
”そんなことできるか!”
過度のストレスで危うく恐ろしい地獄絵図を描いてしまう所で彼は我に帰った。
クソッ!と内心毒を吐く。クソだけに正にクソだ。
痛みにどれくらい耐えただろうか。
エレベーター内の非常電話が鳴り、今から動かすという知らせが入った。
あと少し、あと少しでこの苦しみから解放される・・・果たしてエレベーターの戸は開き、彼はあわてず急がず、かつ怪しまれないように早足でWCに向かった。
そこで彼は目にするのだった。運命の神に魅入られた者の現実を。
只今故障中。
カテゴリ : 日記